茶店:「珈琲屋 ハロー」、61年目の春 終戦の年、浅草の焼け野原に開店 /東京 
◇「父の味」守り続け
◇マスター・青野圭成さんは同い年の61歳−−レトロ調の店内、常連客らでにぎわい
 終戦の年、焼け野原の浅草で生まれた喫茶店「珈琲屋 ハロー」(台東区浅草1)が、同い年のマスター、青野圭成さん(61)と共に、61年目を迎えた。街並みは変わっても青野さんは、父から引き継いだ店の名やコーヒーの味を守っている。【益子香里】
 青野さんは45年2月、疎開先の群馬県高崎市生まれ。父茂三さんは終戦の秋、浅草にバラックを建て、「ティールーム ハロー」を開いた。店で出すのはヤミで仕入れたコーヒーと、ようかんなど甘いもの。食料難の中、「食べ物商売は、売れ残っても食べられる」と考えた。店の名はお金を持っている米兵に分かるよう名付けたという。
 周囲は焼け野原。店から約百メートルの東武線浅草駅から歩いて来る人が見えた。地下鉄銀座線の浅草駅も近く、運転士がよく通って来た。経済統制で手に入りにくかったコーヒー豆は戦後5年で容易に買えるようになり、オリジナルブレンドを始めた。
 昭和30年代。浅草六区の映画街が栄え、映画を見終えた人が店に押し寄せた。最終上映の客のために午後11時まで開けていた時もある。父は扉を開けるドアガールをやめて自動ドアにしたり、米国製の製氷器を入れるなど、常に新しいアイデアを取り入れた。
 大学を出た青野さんが店を手伝い始めたのは1967(昭和42)年。だが昭和40年代以降は、浅草人気が下降し、厳しい時期が続いた。
 コーヒーの味にも濃い、軽いなど流行があったが、青野さんは父の味を守った。半年だけ豆を変えたのが、湾岸戦争の91年ごろ。いつもの豆が入荷できず苦渋の選択だった。常連客が何も言わなかったのは気づかってくれたからだと思う。
 3年前、長男の晃三さん(26)が店の手伝いを始めた。開店から61年。喫茶店は携帯電話の普及で待ち合わせも減り、街角に安価なコーヒーショップが次々と出来る。それでもどこか懐かしく、落ち着いた雰囲気の大正レトロ調の店は、常連客や観光客でにぎわう。青野さんは「息子にも浅草の歴史をコーヒーと共に守ってほしい」と話している。 4月2日朝刊(毎日新聞) - 4月2日12時1分更新 コピペ from Yahoo!!




















=展示のお知らせ=


東京のCFプロダクション21incorporationの玄関先で写真を展示させてもらってます。
Web Site/http://www.21inc.co.jp/


会期 4/3-4/28
平日 10:00〜18:00
土曜・休日は都合により開催しておりません。

愛と笑いと毒の渦巻く展示です。
興味のある方はご覧になってやって下さい。